看取るということ

先日、友人が知らせて来たブログを読んだら、胃ろう(経管栄養等)の
ガイドラインや現状など個人の意見もあわせての記事だった。

その中のコメント欄には介護のプロのコメントに混ざって、介護家族のコメントも
入っていた。
記事自体は、私も参加した老年医学会で「食べられなくなったらどうしますか?」
で発表され、ガイドラインとなったことの内容だったので、特に過激なわけでもなく、
それぞれが考えるべき問題だという提案であったのだが、なぜか
胃ろうにして、良かったという家族の一意見に、記事を書いた人は激怒していた。
そして、自然死議論に蓋をした、終末期ケアの議論をタブー視させるとして
「断固闘う」と結んであった。
今、大事な人と過ごしている介護家族と闘うのか。。。。と思っちゃった。。

胃ろうを選択した場合も、選択しなかった場合でも、家族は
少なからず、不安を押し隠して過ごして行く。
そんなときに、たとえ提案であったとしても、少しでも「良くない」
自分なら選ばないと、言われたら、家族は、どうしても、言いたくなる。
「幸せな時間」は得られたのだと。

端から見たら、食べられなくなったら「かわいそう」と
そこまでして生かすなんて、と言う人だっている。
だが、家族にしたら、目の前の「笑顔」や「冗談」や
たわいもない、小さなことを一緒に感じ取れることに大きな
喜びを感じる。
そんな時間も生まれるのだと、言いたいだけなのだ。

そういう、なんということない、ふつうの介護家族に
「断固闘う」って何なのだろう。
そんな相手ではないというのに。


専門家たちが、自分たちの目標として掲げて、お仕事の質を高め
より良い高齢者支援世界を作って行こうというのは、
理解するのだが、これが時に、家族を大きく斬りつけることを
専門家たちはあまりわかっていない。

本人を良く見て、理解して、ご家族の意見を取り入れてと言いながら、
家族の戸惑いを見抜けない、専門家があまりにも多過ぎる。
介護家族の心理を見抜けるのかなあ。

ホームで食事を取らなかった母、家では食事を取るようになった。
何の変哲もない、おじやや、野菜やチーズを入れた卵焼きや、
なんでも食べてくれる。
そんなとき、ホームで出来る事の限界を思い知らされた。
食事の形態を変えることはできても、母が食べられる物を
その場で作ってもらう事はできなかった。
入れ歯の固定剤も、ホーム側としては手間が増えるし
勧められることもなかっった。
食べられそうなものをお願いしても買ってくれるのは数えるほどだった。
共同生活だからしかたのないことなのだけれど。

こういう小さな事が積み重なり、食事が取れなくなれば、
胃ろうも家族の前に突きつけられる。

父のときも、専門家に突きつけられたことばには私も傷ついた。
「レビ−っていったって、死ぬときはレビーで死ぬ訳じゃない」
「なんで早く胃ろうにしなかったんだ」
「こんなんじゃどこも受け入れてくれない」

「胃ろう」という言葉は知っていたけれど、
突然選択を迫られて、動揺もした。
多くの家族が、未だに、同じことを繰り返している。

胃ろうになる前にすべきこと、できることを
しっかりリードしてくれる専門チームが必要なのだ。
家族は専門家ではなく、何も知らない、のだから。

「胃ろう」を選択する是非ではなく、正しく理解し、
正しく選択できるように、基盤を整えることは必要だ。
そのための議論ももちろん必要になる。

家族の死を見つめる、その家族は嫌でも考えさせられる、
人間って、
「どう生きるのか、どんな死を迎えるのか」

そして、自分はどんなふうに老いたいか、死にたいか。

最期の一呼吸を見つめるとき、それぞれがいろんなことを考えるわけだ。



父の末弟、私の叔父は、身寄りのいない人として、
ホームに住んでいた。
亡くなってから、市と施設の方が所持品から父の名前を見つけて
連絡してきた。
父と私と二人で葬儀をした。
棺の中の叔父の顔は父とそっくりで、父と私が居る事を
喜んでいるような笑顔だった。
施設の方が、「岡村さんは、ほんとうにダンディで
品のある方でした。」
と言った。
叔父のお骨を抱いて、電車に乗って帰ってきたのだが、
父も嬉しそうだった。

最期のときは叔父はひとりではあったけれど、
ちゃんと家族に看取られたのだと思った。


人の死もみな違う。
マニュアルがあるから、請負えることでもない。
死に間際に、「死にたくない」って叫ぶかも知れない人。
「ありがとう」とかっこ良く、去る人。
老人の死は、たいがい静かなんだろうけれど、
施設の若い職員たちが、慣れてしまうこともなんだかいやだ。

看取りの仕方を決める前に、自分を知り、自分を養うことのほうが
大事かもって思う。

各個人から生まれる、本人と家族への思いやり。
できることが何なのかを考える力をそれぞれが養うことのほうが大切かも。
それをしながらみんなで考えようよ。

闘うことなんて必要ない。
生きることを死ぬことを平和に考えてほしいなあ。



私も今また、新たな心境の変化を迎えた。

母の認知症を悩むのではなく、母のからだを気遣うことの方が大事だと言うことを。

怠さは痛みに変わりつつある。

うちには、同じ病気の人がもうひとりいるから、
複雑ではあるけれど、いつものように
「今」しかないので、「今」のこのときを
どれだけ素敵に過ごせるかだけを考えていきたい。

と人間で手一杯のところに
ジュリちゃん、体調不良。
夕飯支度の包丁を置いて、すぐに病院へ。
早期発見?で注射で済んだ。

寒風のなか、外猫たちの世話してたら、夫が言った。
「めんどうみる人?多くて大変だねえ」って。

猫も人間も同じって思ってるのは、私だけ。。。。内緒。。
by ygracia | 2011-11-26 01:20 | 気まぐれなお話


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