2012年 09月 03日
認知症の終末期を考える
今日は「認知症の終末期を考える」フォーラムに参加してきた。
ちょこっとお手伝いも。
数ヶ月前にこの題名を見たときは、「怒り」で心が震えてた。
「認知症」の終末期って、誰が決めるんだ、と腹がたったから。
母を1月に自宅で見送って(看取りということばも今はイヤ)、「人がひとり死ぬ」
ことをそして、父とは違う「死」を見たから、
(箕岡先生が「看取り」は日本独特の言葉というのを聞き、
日本人の死生観から生まれた美しい言葉なのかもと思ったけど)
「認知症であろうが、なかろうが」人の死をお仕着せの流れにのせて
欲しくないという気持ちが強かった。
今日、会場を見渡し、パネルディスカッションを聞きながら、
人間って、やっぱり死というものに畏れを感じるのだろうなあ、
人の死に責任を負うということがすごく重荷なんだろうなあ、
人って、やっぱり人の中で己をぐるぐる振り回し、ぶつけあった
ところで、相手に負荷をかけていく、自分もまた負荷をかけられる、、
みんなで話せばいろんなことが見えてくるからみんな来るのね、、
でも家族はどの世界ともつながっていて、それぞれの立場も
ある程度理解できてるんだけど、、
とかとかいろんなこと考えていた。
参加者は看護師さんや介護士さん、ケアマネなど、やはり
認知症の方の死の選択に近い人たちが多かったようだ。
箕岡先生の「認知症の人の終末期における倫理的問題」は非常に
興味深く、迷える人たちの指針になる。
家族も迷える場合はしっかり参考になる。
「問題なのは結論ではない。その結論を出すためのプロセスなのだ。」
聞いてるときに、すごく落ち込んでしまった瞬間があった。
私の母はアルツハイマーで腎臓ガンだった。
だから胃ろうの選択はなかったけど、
「延命治療の中で、救命治療」というところで、
母の点滴のことを思い出してしまった。
あの点滴を外していなければ、もしかしたら、母はもうすこし
生きて、楽しい事もあったかもしれない、と。
宮永先生が質問の答えをしているときに、
「医療者の意見も聞いて欲しい、対等に話したい」と
おっしゃったことも重なり、果たして自分の判断が良かったのか
とまたぶり返してしまったのだ。
認知症の人の終末期の具体的な研究はまだ少ないようだ。
父も内臓関係は特に問題なかったけど、胃ろうだった。
からだも自分では動かせなかったけど、気がつくと
タオルケットをまくっていたり、足を組んだりした。
笑いもした。話もした。
嚥下中枢がレビー小体病のせいで機能しなくなっただけ。
レビーは認知症であって、認知症じゃない。
母は医学的に言ったら、きっとホームから戻ったときから
終末期医療として、訪問医には捉えられていたのだろうと
思うけど、ほんとうに状態が良くなくなったのは
最後の1ケ月。
終末期ということばを簡単に言っちゃいけない。
細胞学的に、生物学的に終末期を考えてほしい、、かも。
パネルディスカッションは、並んだ人々の自己紹介の内容が強く、
これは知らせることも大切だけど、できれば討論したほうが
もっといろんな意見が聞けたのではと思った。
ま、時間も限られているから、、難しいんでしょうけど。
介護家族が社会に貢献することを美談化するのは
あまり好きじゃない。
どんな介護家族であっても、介護が済んだら、お疲れさん、と言って
静かにしてあげればいい。
できる人は社会に貢献して、これからせまりくる、認知症が
溢れる社会の力になればいい。
みんなじゃなくていい。
野田さんもいた。
グリーフケアが必要だと言った。
自分が浦島太郎だったと気がついたと言った。
そうだろうか。
お母さんと一緒に過ごしていた日々は竜宮城じゃない。
大事な大事な、大切な大切なれっきとした現実だ。
介護が終わると介護職側の目線になるのも家族の
通る道で、みんな同じだ。
そして、社会に復帰するかたちもみんな違う。
家族が亡くなった翌日に職を決めた人だっていると思う。
生きて行くために。
苦しみと悲しみを埋める力はひとそれぞれ違うから
与えられるグリーフケアも必要だとは思う。
野田さんの話は笑いも誘ったけれど、その心の奥の
痛みは計り知れないから、私は笑えなかった。
あのありのままの姿がみんなに愛されていて
会った人が皆、とりこになっていくんだろう。
野田さんが遠い存在であったとしても、あの介護の日々
の中でつながった部分だけは、ふんばる同盟の
札幌夫人と東京夫人、やっぱり信じ続けていたい。
らしくあれ。
母の声は、まだ聞こえる。
マツキヨの前を通れば、オムツを買わなくちゃと、思う。
ということで、乗り越えたと思って出かけた終末期フォーラムも
曇り空と同じく、まだ面白いとは思えなかった。。
白山通りのお祭りで、元気を取り戻した。
と呑気にしてたら、こんな時間。
明日から、私も自分への復帰初日、早く寝なくちゃ。
にほんブログ村
ちょこっとお手伝いも。
数ヶ月前にこの題名を見たときは、「怒り」で心が震えてた。
「認知症」の終末期って、誰が決めるんだ、と腹がたったから。
母を1月に自宅で見送って(看取りということばも今はイヤ)、「人がひとり死ぬ」
ことをそして、父とは違う「死」を見たから、
(箕岡先生が「看取り」は日本独特の言葉というのを聞き、
日本人の死生観から生まれた美しい言葉なのかもと思ったけど)
「認知症であろうが、なかろうが」人の死をお仕着せの流れにのせて
欲しくないという気持ちが強かった。
今日、会場を見渡し、パネルディスカッションを聞きながら、
人間って、やっぱり死というものに畏れを感じるのだろうなあ、
人の死に責任を負うということがすごく重荷なんだろうなあ、
人って、やっぱり人の中で己をぐるぐる振り回し、ぶつけあった
ところで、相手に負荷をかけていく、自分もまた負荷をかけられる、、
みんなで話せばいろんなことが見えてくるからみんな来るのね、、
でも家族はどの世界ともつながっていて、それぞれの立場も
ある程度理解できてるんだけど、、
とかとかいろんなこと考えていた。
参加者は看護師さんや介護士さん、ケアマネなど、やはり
認知症の方の死の選択に近い人たちが多かったようだ。
箕岡先生の「認知症の人の終末期における倫理的問題」は非常に
興味深く、迷える人たちの指針になる。
家族も迷える場合はしっかり参考になる。
「問題なのは結論ではない。その結論を出すためのプロセスなのだ。」
聞いてるときに、すごく落ち込んでしまった瞬間があった。
私の母はアルツハイマーで腎臓ガンだった。
だから胃ろうの選択はなかったけど、
「延命治療の中で、救命治療」というところで、
母の点滴のことを思い出してしまった。
あの点滴を外していなければ、もしかしたら、母はもうすこし
生きて、楽しい事もあったかもしれない、と。
宮永先生が質問の答えをしているときに、
「医療者の意見も聞いて欲しい、対等に話したい」と
おっしゃったことも重なり、果たして自分の判断が良かったのか
とまたぶり返してしまったのだ。
認知症の人の終末期の具体的な研究はまだ少ないようだ。
父も内臓関係は特に問題なかったけど、胃ろうだった。
からだも自分では動かせなかったけど、気がつくと
タオルケットをまくっていたり、足を組んだりした。
笑いもした。話もした。
嚥下中枢がレビー小体病のせいで機能しなくなっただけ。
レビーは認知症であって、認知症じゃない。
母は医学的に言ったら、きっとホームから戻ったときから
終末期医療として、訪問医には捉えられていたのだろうと
思うけど、ほんとうに状態が良くなくなったのは
最後の1ケ月。
終末期ということばを簡単に言っちゃいけない。
細胞学的に、生物学的に終末期を考えてほしい、、かも。
パネルディスカッションは、並んだ人々の自己紹介の内容が強く、
これは知らせることも大切だけど、できれば討論したほうが
もっといろんな意見が聞けたのではと思った。
ま、時間も限られているから、、難しいんでしょうけど。
介護家族が社会に貢献することを美談化するのは
あまり好きじゃない。
どんな介護家族であっても、介護が済んだら、お疲れさん、と言って
静かにしてあげればいい。
できる人は社会に貢献して、これからせまりくる、認知症が
溢れる社会の力になればいい。
みんなじゃなくていい。
野田さんもいた。
グリーフケアが必要だと言った。
自分が浦島太郎だったと気がついたと言った。
そうだろうか。
お母さんと一緒に過ごしていた日々は竜宮城じゃない。
大事な大事な、大切な大切なれっきとした現実だ。
介護が終わると介護職側の目線になるのも家族の
通る道で、みんな同じだ。
そして、社会に復帰するかたちもみんな違う。
家族が亡くなった翌日に職を決めた人だっていると思う。
生きて行くために。
苦しみと悲しみを埋める力はひとそれぞれ違うから
与えられるグリーフケアも必要だとは思う。
野田さんの話は笑いも誘ったけれど、その心の奥の
痛みは計り知れないから、私は笑えなかった。
あのありのままの姿がみんなに愛されていて
会った人が皆、とりこになっていくんだろう。
野田さんが遠い存在であったとしても、あの介護の日々
の中でつながった部分だけは、ふんばる同盟の
札幌夫人と東京夫人、やっぱり信じ続けていたい。
らしくあれ。
母の声は、まだ聞こえる。
マツキヨの前を通れば、オムツを買わなくちゃと、思う。
ということで、乗り越えたと思って出かけた終末期フォーラムも
曇り空と同じく、まだ面白いとは思えなかった。。
白山通りのお祭りで、元気を取り戻した。
と呑気にしてたら、こんな時間。
明日から、私も自分への復帰初日、早く寝なくちゃ。
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by ygracia
| 2012-09-03 02:09
| 気まぐれなお話