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老いた父と母と-いつまでもあなたがたの一人娘でいたい~


by ygracia
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認知症の告知

こてつさんのブログを読んで、父のことを考えてしまった。

父母と同居を始めたのは16年前。
母が網膜剥離をして、家事の負担が大きくなってきた
のと、夫の両親も亡くなり、夫自身の決心もついたことが重なり、そして念願の
同居が始まった。

もちろん父も母も元気で、私はいっぺんに甘ったれの一人っ子に戻り、
好きなようにさせてもらった。家事はどちらかというと母がやってくれたような。
子供のことも父母がいるから、安心して、私はボランティア活動に
うつつを抜かしていた。
父も体調が悪いときは、自分で病院にいき、全ての手続きをしていたから、
白内障の手術につきあったのと、ほかの検査の結果を聞きに行くのに、
同行したくらいで、一人娘としてはかなり呑気にやっていた。
同居前父が腎臓ガンの手術をしたのに、それほど大騒ぎもせず、
心配もしなかったのは、父がすごく落ち着いていて、告知も一人で
受けて、私にも手術さえすればいいんだからと、あっけらかんと
していたから。
その後の検診も一人で行き、3年たった、5年すぎた、と
お祝いし、まったく不安感を見せなかった。

そんな父が初めてみせた弱気は、自分のコントロールができなくなり
鬱状態になったとき。
「どうしてやる気がでないんだろうか」

日曜日には日曜大工に、園芸。
ウィークデイは会社顧問として仕事に行き、机にすわっているとおもいきや、
営業といっしょに、会社回り、また技術者と現場まわりで、現役時代と
同じ仕事をしていた。
リタイア宣言をしたのが80歳「もういいだろう」と。
それでも会社から相談電話が絶えず、結局ちょこちょこ会社に
出かけたりしていた。81歳になるころに完全にリタイア。
その後も自分で区報を見て、何かに応募したり、シルバー大学も続けていた。
それがすこしづつ、すこしづつ、変化してきていることに
私はまったく気がつかなかった。

脳血管性痴呆(当時)と虎ノ門病院で診断されたとき、
父には外で待ってもらって、私だけが聞いた。
だから父は「痴呆」と言う言葉は聞いていない。
私が父に伝えたのは「小さい脳梗塞のあとがちょこちょこあるんだって、
でも年相応だから、普通にしてていいんだって。」
父も納得して脳の血流をよくするからとサアミオンをしっかり飲んでいた。

それでも鬱っぽい状態が消えなくて、私は叱咤激励。
父はそれに応えようとがんばってくれた。

いろんなことがあり、パーキンソンだと言われて、父は自分で首をかしげた。
「パーキンソンの友人がいるけど、ちょっと違うけどなぁ」
そしてパーキンソンの薬で父が廃人になりかけ、違うと確信。

西村先生のくるみクリニックの初診で、レビーとわかり、
そのつぎのときだったか、忘れたが、父が「何の病気だ?」と
聞いたような気がする。
「レビー小体というものが脳の中にできて、それが
悪さをするんだって、分かって良かったよね。お薬も効くし」
やっぱり認知症という言葉はださなかった。

自分があなたは「痴呆症」です、って言われたら、ぜったいいやだから。

父は素直に受け入れて、それ以上私に質問しなかった。
アリセプト効果もあったし、鬱も脱却して
デイサービスにも楽しく通えるようになったからだろう。

幻視がひどいときも本人は夢みたのかもと、思っている段階は
せっせと素直に薬をのみ、いたって元気だった。

はっきり言って、レビー小体病だから、いっしょに戦いましょうというのは
ありえないだろうと思う。
もしかして治験に積極的に参加して自分を実験台にしてこれからの人々の
ために役立ててくださいという人がいるかもしれないけれど、
そういう精神状態になれる人がいるかどうか私には今はわからない。

もう80年以上生きてきて、自分はなんとか生きている、レビーだか
なんだかわからんけど、治るものかどうか、すこし不安だけど、
こんなものかと思っている人がほとんどじゃないかと思うのだ。

じゃ、アルツハイマーです、と言われたら?
若年性アルツハイマーの家族会(ご本人も含めて)の座談会
傍聴させていただいたことがある。

ほとんどが働き盛りの年齢。
ご自分の病気をしっかり受け止めているけれど、コントロールはできない。
それをサポートするのが家族であるわけだけれど、その苦しみ(あえて
苦しみといわせて)は、計り知れない。

若いからまだ人生の道が半分だから、きっと努力する余力もあるし、
必要性もあるのじゃないだろうか。

もし私が、今、あなたはレビーです、と言われたら、
実態を知って、残された時間をどう過ごすかと計画したとして。。。

レビー小体が、あたまのなかにある限り、自分でコントロールできないんだから
だったら、自然に過ごすのがいちばんいいや、って思うだろう。

明日死ぬのか、来年か、10年後かそんなこと、わからない。
レビーであろうが、アルツであろうが、病院でたとこで、交通事故で
死ぬかもしれないし、インフルエンザで死ぬかもしれないし、
階段おっこって、頭打って死ぬかもしれないし。。。(表現悪くてごめんなさい)

虎ノ門で診断受けたときに、先生が言ったことば
「ふつうに生活してください」

私が言う、「どうしたらいいですか?」への答えはいつも
「ふつうに、自然に生活してください」
だった。

この言葉にいらだち、レビーと診断されてアリセプトで快復したときは
「努力できたのに、直せるのに」と思い、反感持っていた。

でも在宅介護を終えて、思うこと。

「ふつうに生活してください」

ご飯を食べて、寝て、笑って、薬飲んで、ご飯食べて、ちょっと家族とけんかして、
寝て、夢見て。。。ご飯食べて。。。寝て。。。わらって。。。。
そのふつうの生活の中で好きなことができるなら、家族の力を借りて
やってみよう。。。
やりたいことある?って聞いてみたら、やりたいことあるよって
答えてくれるうちに、できるときにやってみればいい。。
ご飯食べて、寝て、薬飲んで、やりたいことやってみて。。。。

家族が必死になりすぎて、本人を振り回してしまうこともある。

また本人がどうしても病気に関して納得したいというなら、共に
戦ってもいいとも思う。

それを見極めるのは家族、いちばんそばにいる介護者しかいない。

いのちまるごと引き受けるのは、ほんとに大変なこと。

赤ちゃん育てるのは未来と夢と希望があふれる。

人生の終焉を迎える人のいのちを引き受けるのは自分のいのちもけずること。。。

父の引き出しを片付けていたら、メモがいろいろ出て来た。

「アルツハイマー病。。。。脳の中に。。」
父がテレビ番組でみた内容を書いていた。
レビーと診断されたあとの頃だと思われる。

父が何を思っていたのか今はもうわからないけれど、
最後まで生きようと力を振り絞っていた父には
レビー小体型認知症はまったく関係しなかった。

在りし日の父、ジュリと。。

認知症の告知_b0055939_0215232.jpg

by ygracia | 2007-12-17 00:22 | 介護に思う