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今年最後に

2006年、心に大きなプレゼントをもらえてもうすぐ終わる。。。

1月に一大決心で、母をホームに預けて、
父の介護に専念することになった。
つらくてつらくて、もうできないよーって父に泣きついたことも何度となくあった。
でも父の笑顔に救われて、またふんばった。
言ってはいけないことなのに、でも父だから甘えて言ってしまった。

10月13日に、父を車にのせ、病院に向かった私。
そのまま二度と家に戻ることができなかった父。。。。

この選択がまちがいだったのか、私の心の迷いはつづくけれど。。。。

でも父は私たちにがんばり抜く姿を見せてくれた。

大きな出会いをたくさん残してくれた父。

感謝して感謝して2006年を閉じたいとおもう。

おとうさん、ありがとう。
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by ygracia | 2006-12-31 03:19 | 今日のお話

年の瀬に その2

本当は今日母を迎えにいく予定だった。
ところが、まるで登校拒否の子供じゃないけれど、私がゆうべから一睡もできず、
朝になったら、頭痛、鼻水、目がうるうる、で風邪引き状態。
一挙に気が重くなってしまった。

我が儘承知でホームに電話して31日にお迎えにいく事に変更した。

ほんと情けないけど、気が重い。
一方では母にいっぱい孝行したいという自分もいるんだけれど。。。。

ネットサーフィンしてたら、またいろいろな介護日記を見つけた。
むかしに通り過ぎた事があるみたいだけど
そのころは何にも感じてなかったのだ。

高齢者の食事の工夫をしていらっしゃる方がたくさんいる。
父にももっともっと気を使っておいしいもの食べさせてあげるべきだった。

2005年に父は普通食。
2005年の後半に脳梗塞で、とつぜんミキサー食。
2006年前半はミキサーと刻み食。
2006年2月におまんじゅうをおいしそうにひとりで食べたのが最後の食事。
2006年3月に胃ろう。
6月からすこしづつ経口も試みたけど、ほんの数回で取りやめ。
10月、豚汁を少しなめた。口からはほんとうに最後の食事となった。
2006年11月、アイスクリームを食べさせてあげようと準備したけど
二度とたべることはできなかった。

私の介護歴は母の骨折からはじまって約12年。
母が骨折を繰り返し、糖尿だったから食事の世話と
生活介助。
父の徘徊からは4年半くらい。

父と母の食事は別に作っていたけれど、何を食べさせたのか
今はなぜかあまり思い出せない。
料理は好きだけれど、父の動きに振り回されるようになってからは
買い物にもいけないし、
食事の準備にかかるときは疲れ果てているという感覚が
いつもいつもあった。
どうにもならないときは、母にはお寿司、父にはうなぎと、
決まってでき合いのものを出してたような気もする。

父が胃ろうになってからはじめて食支援ってすごく大事なんだと
感じた。一歩遅かったと本当に感じている。

世の中、一生懸命高齢の家族を世話している人がいっぱいいて、
みんな創意工夫でがんばっている。

すごいよね、人間って。
やさしいよね、人間って。
by ygracia | 2006-12-30 00:41 | 今日のお話

年の瀬に

今日は、大急ぎで母の健康保険証を書き換えにいった。
のんきにしてるから、ほんとはやることいっぱいなんだけど。。。。
大掃除もしていない。。。。。

で、娘と六本木ヒルズで待ち合わせしてお昼を食べて、
映画を見る事にした。
今日はレディースデイで、1000円だった。

「硫黄島からの手紙」
クリント イーストウッドが監督。
「父親たちの星条旗」と二部作だけど、こちらはまだ見てない。

映画は、至極さらっと出来上がっているのだけれど、要点をうまくついてて
上手にまとまってて、えぐぐなく、お涙頂戴でもなく、良かった。
つっこめば、おかしなところはいっぱいあったし、変だけど、そういうところを
忘れさせるくらい、戦争はおかしいんだよということをさらっと言ってるような。。。

帰り際、25、6歳のヒルズ族の女性と男性グループが、
「おかしいわよ、あんなに若くて結婚してて、子供もいる想定なんて」と
二宮和也の役を批判していたけれど、
あ〜この子たちは戦争のときの社会状況とか、全く知らないんだなと
つくづく思った。
結婚の早い人もいっぱいいて、いまよりずっと大人だったかもしれない、
生きる事にまじめだった若者が多かったんだよと言いたかった。

私たちの年代までは親も戦争経験者だったし、
学校でも戦争に関しての歴史としての事実を伝える教育は
まだなされていた。
だから戦後生まれでも戦争の悲惨さや、バロン西のことや、
硫黄島の決戦のことはある程度知っていた。
でも今の子たち、全く知らないんだ。

二宮君はジャニーズだけれど、映画「青い炎」でもすばらしい演技してるし、
テレビのドラマでもいい味だす若者だ。
この「硫黄島〜」でもイーサンホークとか、もうひとり、う、だれだっけ
とにかくむこうの映画人が好くような演技をしている。
実際はもっとすごい演技ができるとは思うけど。

で、つけくわえれば、アメリカ兵に、名のある俳優使ってくれても
いいんじゃないの〜〜って思った。

映画が始まる前、前回の観客が出て来て
娘が「あ、おかあさんとおじいちゃんみたい〜」というので
その方向をみると、女性に連れられた、ご老人が杖でゆっくりゆっくり歩いていた。
(父にも見せたかったな。。。。。)

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by ygracia | 2006-12-27 23:56 | 雑感

すこやかに逝きたい その1

ねこみみさんのブログから、サンケイ新聞のゆうゆうライフを見て来た。

すこやかに逝きたい(4)望む終末、迎えるために
 終末期に多くの管を入れるなどの延命治療をしてほしいかどうか−。患者や家族には大きな選択です。ところが、そうした治療をしないでほしいと思って自宅療養を選んでも、急変して病院に運ばれれば、望まぬ医療が行われるケースが少なくありません。患者の意思に添って在宅の看取(みと)りを実現するには、状態の変化や不安にいつでも応じる窓口や、事前の十分な情報提供が必要のようです。(佐藤好美)

 「皆さん方は、ママの最期の何日かを、考え得る最高の日々にしてくれました」

 「最期の2週間はママにとって、とても貴重でした。家族と家で誕生日を祝えたことは、非常に意味深いことでした」

 英国のがん患者の在宅看護、在宅看取りを支援する慈善団体「マリー・キュリー がんケア」のパンフレットには、家族からの感謝の言葉が並ぶ。同団体は国内10カ所でホスピスを運営、訪問看護師2000人を抱え、年にがん患者約2万5000人に無料で訪問看護を提供する。

 英国の調査では、病気で死期が近づいた場合、自宅で逝きたいと考える人は70%に上る。しかし実際に、自宅で最期を迎えられるのは20%にとどまる。

 同団体の医療アドバイザーで、王立医師会緩和ケア部代表のテレサ・テイト医師は「英国でも、在宅患者が夜中に救急車で運ばれ、病院で望まぬ延命治療を施されて亡くなる状況はつい最近までありました」と言う。

 こうした事態を解消しようと、同団体は国内4カ所のコールセンターを設けた。午後3時から翌朝8時まで、看護師が待機し、必要ならホスピスから医師や看護師を緊急派遣する。

 テイト医師は「患者や家族が夜間、看護師に相談できるようにしたことで、意思に反して救急車で病院に運ばれてしまうケースを減らすことができました」と話す。そして、「開業医、訪問看護師がいなければ、その整備には多額の費用がかかります。でも、スタッフがいるなら、連携させる費用は大したことはないのです」と説明する。

                   ◇

 在宅療養を希望する患者、特に、もはや治療の手だてがない高齢患者の看取りをどうサポートするかは、日本でも課題だ。

 10月、75歳以上の後期高齢者の医療を考える厚生労働省の部会で、委員の「在宅看護研究センター」(東京都新宿区)代表、村松静(せい)子さんは、こう発言した。

 「病院は退院支援をして患者を自宅に帰すけれど、患者は変化があれば救急に運ばれる。高齢の末期患者に、本人の意思がはっきりしないままチューブが入れられ、その状態で自宅に帰されてくるという現実がある。病院の集中治療室と似た状態で自宅にいることが、本当に患者の意思だったのかと思う」

 村松さんは長く、末期患者の訪問看護に携わってきた。感じるのは、「医療行為が多すぎるのでは」との疑問だ。血圧や脈のモニター、導尿カテーテル、胃への栄養補給、人工呼吸器。患者によって状態が違うにもかかわらず、「高度な病院ほど、医療行為の『ワンセット』をあたり前につけ、そのうえで『もう、できることはありません』と、患者さんを帰してきます」。

 チューブが増えれば、皮膚がただれたり、液が漏れたり、トラブルも増える。「家族の苦労は、チューブが1本増えれば倍になり、本数に比例して重くなる。疲れ果て、看取る余裕もなくなります」と、村松さんは訴える。

 しかし、村松さん自身、救急にはそうせざるを得ない面もあると指摘する。救命が最優先。通常は、その後の「生活の質」まで考えられない。村松さんは「地域や医師によって医療行為の差も大きい。終末期に何が適切で、どこから過剰医療なのか、検討することも必要です」という。

                   ◇

 患者が急患で運び込まれる背景には、患者や家族が、主治医から終末期のプロセスをきちんと知らされていないこともありそうだ。

 「仙台往診クリニック」(仙台市泉区)の川島孝一郎医師は年に100人弱を在宅で看取る。「本当に入院が必要なのは全体の5%くらい。事前に選択肢を示し、『生き方をどうしたいのか』を判断してもらえば、入院は少なくて済みます」と言う。

 川島医師は、患者が当たり前のことを知らされていないと感じる。

 歩けなくなり、食べられなくなり、呼吸困難になり、血圧が下がり、意識が落ちて、大往生を迎える。

 「それなのに、状態が変わることを、『悪化』とか『危険』とか言うから、家族も驚く」(川島医師)。“急変”で救急車が呼ばれ、患者は搬送先で濃厚な医療を受け、それが希望と異なるケースも生じるわけだ。

 「皆さん、大往生を誤解している。おいしいものをパクパク食べて大往生とか、昨日までスタスタ歩いて大往生ということはありません」と言う川島医師。「医者は、状態が変化したときに、どんな選択肢があって、それによって、どう生活が変わるかを、患者さんに説明する必要がある。そうしないと、患者さんは生き方を選べません」と強調している。=おわり

(2006/12/21)


私も父が徘徊を始めた頃から、いつもケアマネさんに、質問していた。
「最後はどうなっていくの?」

そして訪問診療が始まってから、「看取り」の覚悟を決め、折りにふれて
ナースに尋ねたり、友人に尋ねたり、いろいろ頭の中では準備をしていた。

延命については延命治療はしないと私が決めていたのだけれど、
それが父の意思とはちょっとちがうみたいだとときどき感じてはいた。
はっきりと父は常に「生きたい」と思っているのだとわかったのが
「胃ろう」造設のときだった。
by ygracia | 2006-12-24 00:49 | 今日のお話

今になって

PDNネットワークの古い掲示板をみていたら、胃ろうの栄養剤の逆流についての
質問があって、それを読んでいたら、父の容態を思い出し、もっと先生に
突っ込めば良かったと、後悔の念でいっぱいになった。

掲示板から
陸の孤島でPEG管理をしている内科医です。
固形化が生体にとって生理的である根拠があまりのも非科学的です。
第一に、固形化と固形物の摂取を混同しているようですが、寒天による固形化はあくまで半消化態栄養に食物繊維を加えているだけであり、先生がおしゃるように栄養剤注入が非生理的であれば、半消化態栄養そのももが非生理的であり、なぜ固形化にこだわるのか不明です。
第二に、生理的に考えるなら、寝たきりの高齢者がものの1〜2分で200〜400kcalの食事をしますか? 19や20歳の若者でなければ、1分でどんぶり1杯のご飯を食べれませんよ。この方がよっぽど非生理的ではありませんか?
最後に、私の近くの病院でも固形化により逆流誤嚥性肺炎を起こして重症化した経験があります。この症例も白い栄養剤が口に戻らないと喜んでいた直後に高度の酸逆流による誤嚥(化学性)肺炎を引き起こし、RDSを併発、一時は危機的状況に陥りました。この原因として、急激な胃への容量負荷が迷走神経反射を引き起こし、LESの弛緩と胃収縮による逆流を引き起こしたと考えられます。さらに、食物繊維がGERDに関して、頻度を減じるが、強さを悪化させるため、注意が必要との海外文献もあります。
保険適応している栄養剤は薬剤の扱いされてお

[No.1430のレス] Re:胃瘻固形化栄養注入とマロリーワイス症候群の関係について From:陸の孤島の遭難者 2005/05/29(sun) 22:26:25
すみません、途中で切れてしまいました。
保険適応されている栄養剤は薬剤の扱いであり、その投与方法は薬事法により規定されています。これに反して固形化して、急速注入するなら、やはり患者に用いる前に、何らかの動物実験や、健康ボランティアの協力で根拠を示し、コンセンサスを得た上で、薬剤の添付文書に追記されてから使用すべきです。
問題が起こってからでは遅いのではないでしょうか?

[No.1430のレス] Re:胃瘻固形化栄養注入とマロリーワイス症候群の関係について From:ちーちゃん 2005/05/29(sun) 22:32:50
太郎先生有難うございます。
そうですよね。我々も、おなかを壊した時、嘔吐している時は、胃を休ませて、水分だけにしたり、流動状のものを食べますよね。固形化した栄養剤は、ペースト状ですから、我々からすると、『胃に優しい物』になると思います。
ただ、今まで、液状の食事しかしていなかったPEGのPtが、ペースト状の物を食べるというのは、形状だけみると、食事形態をUpしたことになるのでは?という気がするのですが。
でも、マロリーワイスのPtの治療として、『嘔吐を繰り返さない』ということを考えると、固形化して注入する事は、間違ってなかった事だと思うのです。(実際固形化してからの嘔吐は全くなくなりました。)
で、私達スタッフの考えとして、今度、注入食開始のOKが出た時に、どうやって、注入しようか?と迷っている状態なのです。今までよりさらに少量ずつ時間をあけて、注入する事ぐらいしか、思いつかないのです。(^^;)
他に工夫する事、配慮する事がありましたら、教えていただきたいです。

[No.1430のレス] Re:胃瘻固形化栄養注入とマロリーワイス症候群の関係について From:ちーちゃん 2005/05/29(sun) 23:27:53
陸の孤島の遭難者先生、失礼しました。上のレス入れてる間に先生のレスがあったようです。
先生のお考えでは、短時間での固形化注入は危険だと捉えていいのでしょうか?
現在使用している栄養剤はカロリアン(ヤクルト・半消化態)で、嚥下補助剤(エンガード)で、固形化しています。
今までは、200ml350㎉をマヨネーズ位の硬さで調整していました。それを1回50ミリリットルずつ20分毎にカテーテルチップで、1プッシュ1分位かけて注入していました。それよりもさらにゆっくり注入したほうが良いのでしょうか?
固形化自体を止めたほうが良いのでしょうか?

[No.1430のレス] Re:胃瘻固形化栄養注入とマロリーワイス症候群の関係について From:陸の孤島の遭難者 2005/05/30(mon) 11:48:26
GERDの原因のひとつに固形食物が胃内に沈殿分離することにより、強い酸濃度の層が出来ることがあげられています。固形化すること自体が、わざわざ酸濃度の高い胃酸の分離を促すことになり、結果として、強酸の逆流を招く恐れがあります。勿論、見かけ上は栄養剤の逆流は減じますが、そもそも、逆流誤嚥肺炎の原因は栄養剤の誤嚥ではなく、酸による化学性肺炎です。
本題から外れてしまいました。固形化云々はさておき、そもそも、マロリーワイスは強い嘔吐反射がないと起こりません。おそらく、逆流性食道炎が潰瘍化して出血していると考えられます。
オメプラールがあまり効果的でなかったのは、オメプラールが腸溶性であり、胃内停溜時間が長くなる場合には効果は少なくなることが原因として考えられます。
PPIでも、タケプロンOD(口腔内崩壊錠)に変更してみると効果が見られることがあります。
前述の症例でも、ODを注入することにより、改善したようです。一度、試されては如何でしょうか。掲示板から

父も逆流を防ぐといって、固定剤を注入してから栄養剤をいれたり、量が増えたり
あきらかに胃に負担になっていたと思う。
茶色い液体が吸引されたとき、私は吐血じゃないかといったけど
ナースはいや、栄養剤かもと。担当医はいない日だった。
栄養剤の白いカスが吸引される事もあった。
固定剤をいれるようになってから父は気分がわるそうだった。
あのとき、もっと訴えれば良かったのだ。

低栄養でもその人に一番あった状態を家族が一番知っている訳で、
もっと負担にならずに栄養を付ける方法がなかったのか。

また神経内科医が胃ろう、経管栄養について、熟知しているのか
研究しているのかその辺も確かではなかった。
在宅診療医が判断する基準と病院の医師との基準があまりにも
ちがいすぎて、命をもうすこしでもつなげたい、と信じて病院に
かけこんだのに、私の判断も迷路にはまったような気がしてならない。

いのちのともしびを静かに見守るためには、大勢の人々の力をかりなければ
ならない。でもその人々の連携がうまく行ってなければ、何の意味もない。
家族ひとりで命をまるごと預かって、終焉まで道を進むことは
いっしょに命をけずっていくことに等しい。
それでも在宅で介護を続ける家族はふんばりつづけているのに、
このやるせなさは一体どこにぶつければいいんだろう。。。。
by ygracia | 2006-12-22 00:30 | 今日のお話

始まっちゃいました。

夕べはとってもいい子で寝てくれた母。
朝もゆっくり寝て(というか、私が起きれないから)
ご機嫌な朝、のはずだった。

さーもう朝ご飯済んだかなと見に行くと、
「てっちゃん、てっちゃん、みず、みず」
お茶が目の前にあるけれど、わからないらしい。
「どうしたの?」
なんか飲み込みを何回もする。
「咽せたの?」
はっときがつくと、入れ歯をはずしてしまっているのに、
口の中はリンゴとヨーグルトがいっぱい。
あわてて、しまった吸引器とカテーテルをひっぱりだし、
暴れる母の手を押さえて吸引。
「吐いちゃうわよ!」と母。

でも呼吸はできてるし、唇も普通の色。
どうやら喉のどこかにひっかかっているりんごらしい。
普段噛めるから、イチョウ型の薄切りにしたんだけど、目を離したのが失敗だった。

近くのクリニックにすぐ連れて行ったけど、吸引はできないから
大きい病院へいくようにいわれ、車にのっけて、E病院へ。
で、ホールでwalkojiyasuさんに遭遇====。

耳鼻咽喉科で待ってたらwalkojiyasuさんが来てくれて、
イライラしないで待つ事ができちゃった。
母も同様。
二日酔いのお顔がマリアさまにみえましたぁ〜〜〜〜〜(ばらした)
という私も朝起きて、顔もあらってないし、髪もとかしていない。
でもほんと数年来の友達って言う感覚でなんだか不思議なものです。

で、耳鼻咽喉科で内視鏡で見たけど、とれないから内科に行ってという。
で、受付に戻れという????
先生から内科に電話しないんですかというと、「私はしません」って。
????
実はこのE病院、最近内部の連携に問題あるらしいとうわさになってたので
やっぱりねと思った。
幸い、母の呼吸には問題ないので、慌てず、受付に。
受付のナースも先生が連絡しないことに、おどろいて、
あとからやって来た耳鼻科のナースに注意した。
しかし、内科に電話する物の、先生から電話をいれないから
どこも受け付けてくれない。
ずいぶんかかって、内視鏡の外部から来ている先生でいいから
見てもらえということになり、見てもらえて、ついでに3人ほど
ついててくれたので、ラッキーなことにイチョウ型のリンゴがしっかり
取れました。
気管と食道の食道にはいってすぐのところにひっかかって止まってたそうだ。
食道のいりぐちのため、胃のほうに押せないから
口の方にひっぱりだした。
ほっておいたら、あとで気管に行ったかも。
怖かった。
ほかの患者さんも先生のてのひらのリンゴをみて
「あらま〜〜」
「よかったね」
先生が持ってかえるかというけど、いいですと断る。
蜜のはいったいいりんごなんだけどね。蜜部分もしっかり残ってましたイチョウ型。
この外部の先生、いい青年。
「くるしませちゃって、ごめんなさいね」と母に。
「はいはい」
で、母は「あの先生、なんであやまるの?」
「痛い思いさせちゃったねって」
医師のちょっとしたことばかけで、患者も家族もほっとするものだ。

ホールにいくと、父のお世話になった看護相談室のFさんがいたので
挨拶。
母の食事形態を変えなくちゃだめといわれる。

で、またwalkojiyasuさんに会う。
お互い、めちゃくちゃ疲れた姿ダッタと思う。

母もなぜかホームに帰る時間を言い出した。
ホームに連絡して、食事に注意してほしいこと、刻み食にすること、
などなどお願いする。

母の受け入れ体勢、今回はまったくできていなかったことを反省。
たったの1日で、母を抱きかかえる二の腕は筋肉痛。
車いすからの移動で抱き上げるのに、もう腰がやばいことになった。
おまけに体重すべてをゆだねるので、とんでもないことになる。
私ももっと気力、体力つけないと、今は不可能だ。

walkojiyasuさん、お互い、疲れないようにふんばりましょう。
by ygracia | 2006-12-20 15:32 | 今日のお話

母との会話

先月は父の事が重なり、母は告別式のみやってきた。
ひさしぶりでホームにいくと、顔見知りがほとんどいない。
介護長と相談員も受付も公休だったから。
それでもいままでなら顔見知りの介護士たちがいたのに、
知らないうちに、みなやめたのか、移ったのか新顔ばかりで
息子ぐらいの年齢の男の子たちが飛んであるいていた。
ここのホームはおばあちゃんばかりだから女性介護士のほうがいいんだけど、
訓練生はここに集まるのだろうか。

母はすこぶる元気。
動きも滑舌もいい。

「全部済んだの?」
「。。。」
「そうしき」
「うん」

それから北海道の姪たちの話をしたがあまり関心を示さなかった。

「ばばちゃんは死んだのかい?」(車に乗ると必ず聞く。私を姪を思っているから)
「おかあさんはいくつ?」
「。。。。八十といくつかだ。。。」
「83歳だよ、じゃ、ばばちゃんはいくつになるの?」(いじわるな私だ)
「そうか、死んじゃったね。ふ〜〜〜(大きなため息)

いままでなんでばばちゃんのことが気になるのかわからなかったのだが、
今度の父のことで、北海道のいとこたちといっぱい話して、母の話の
脈絡がつながって来た。

母は東京に勉強にでてくるときに、かわいがっていた黒猫を長姉の姑で
ある「ばばちゃん」に預けたのだそうだ。
ばばちゃんはその黒猫を大事にしてくれたのだという。

「わたしはいつ家に帰れるの?」
「まだね、おとうさんの相続の事なんかで忙しいからもうすこし、
ホームにいてね。」
「財産なんか私ないわよ」
「お母さんと私がお父さんのを分けるの、何も無いけど。」
「何も無くても書類がいるんだね」
「お母さんが居ないと困る手続きもあるのよ」
「いつでもお呼びください」
「。。。。」

病院のN先生が母に聞く
「ご主人の分まで長生きしないとね」
「はいはい」
「ご兄弟は何人ですか?」
「五人です」

帰り際もきちんとあいさつし、笑顔の絶えない母だった。
元気で笑える事に感謝だ。
去年はうちにいて、母娘で鬼の形相だったのだもの。

母にまた嘘をついた。
帰れるのという問いにもうすぐねと答えた。
先はまだ見えてないのに。
「わ〜〜良かった、それが一番うれしいのよ」
なんだかこころがズキズキしたけれど、今はこう言うしかできない。。。
父の声が聞こえた。
「そりゃ、なんたってうちが一番いいに決まってるよ」

私もげんきんなもので、いままで父に向けられていた感性は
すぐに母の環境に方向を変えた。
部屋にはいると、いままでしなかった、尿のにおい。
母のズボンからもかすかににおう。

入れ歯ケースが黒カビで汚れていた。
こんな事始めてた。

明日は介護長に報告だ。

私はF介護長とZ相談員のおふたりを信じているので、この方達が
いなくなることになったら、母は家に連れて帰る。

今日の夕飯は母とふたりで食べた。
糖尿病のレトルトはやめて、ふたりで野菜たっぷりおつゆと柔らかご飯、
みずなと油揚のごま油炒め。粕漬けの魚を焼いたのに、インスリンを
打っているちょっとのあいだに、まっくろこげ、しかたなく食べれそうなところだけ
ほぐして、二人で食べた。
いい気持ち。。。。。
by ygracia | 2006-12-19 20:44 | 今日のお話

心の傷

最後まで父の手をにぎってい娘が心の病に陥った。
強い子だけれど、人生はじめての経験にからだじゅうの神経が
緊張してしまったらしい。

私の方は時折涙にくれるだけで大丈夫そうと思っていた。

今日は自分の診察でE病院へでかけた。
病院にちかづいてくると心臓が高鳴った。
駐車場へ着くともっと心臓が波打った。
まずいなと思いながら、受付へ。
面会者の用紙におもわず名前を書きそうになった。
心臓が痛くなった。

本当は帰りに病棟によって、先生やナースたちに挨拶をするつもりでいたのに
私はもうその場にいることができなくなった。
会計を済ませると、もう過呼吸のような症状。
はやく逃げたかった。

車にのって、大通りに出て、涙があふれた。

こころの傷はまだ痛い。

喪中はがきの宛名書きをしていると、携帯がなった。
クリニックのHナースからだ。
ひさしぶりで聞く彼女の声に心が温かくなった。
いろいろな話をして、私も落ち着いた。
心のもやもやもすっきりした。

父が亡くなって、悲しみに浸っているのも事実だけれど
一方で突然降って湧いたような自由な時間に心を泳がせている私がいる。
そんなことしてはお父さんに申し訳ないと思う自分もいる。
で、バラバラな感じの私がいる。

それでも家族に友人に、ネットの仲間に励まされて
結構早くに元気になれそうな気がしている。
by ygracia | 2006-12-12 22:42 | 今日のお話

心の痛み

父の祭壇を替えた。
葬儀屋さんが作っていったのは、和式用で、つまりおすわりして
焼香するものだったので、高さが低いと家族で不満になり、
テーブルにかえることにした。
今まで父の、小間物が乗っていたテーブル。
湿度計、血圧計、綿棒、カテーテル、、、、
みんなが使いやすいように並べていて、さっきまで父に使っていたものが
並んでいる。
それらをどかして、インド綿のクロスをかけ、小さい祭壇用テーブルを上に
おき、2段にした。
やっと、目の高さにきた父、笑っている。

携帯電話の電話帳を開いて泣いた私。
そこには父関連の電話番号がずらりと並んでいて、
これからここに電話をかける事も無いとおもったら、涙があふれた。
ヘルパーステーション、病院、クリニック、ケアマネ、レンタル業者。。。。。。

パソコンのメールを開いて泣いた私。
受信欄にはインターネットで購入した父の生活用品の受注や、問い合わせメールが
いっぱい。
いちばんお世話になったカメダ医療機器。
かんてんぱぱや、ヘルシーネットワーク。
会員になったばかりだったのに。
PDNネットワークも同じ。
悲しみが溢れて、心残りがやまのように押し寄せた。

心の痛みをかかえつつ、私は父に問いかける。

「おとうさん、わたし、何を間違えたの?」
by ygracia | 2006-12-11 11:41 | 今日のお話

葬儀ミサ 告別式 12月6日 〜千の風になって〜

母は混乱した顔で「話が違うじゃない!」と言いながら、介護長と入って来た。
昨日電話して理解したとおもったのだが、やはり、自分の親がなくなった、
夫だというと、働き盛りの夫が亡くなる分けないと言う。
ホールでお化粧をし、第一礼装のベール付きの帽子をかぶって
母は昔のおしゃれな母になった。
棺につれていき、父の顔をみせると、一瞬息が止まった。
それから火葬の場まで母は母だった。
毅然とした母だった。

「千の風になって」という詩を神父様が引用した。
(あ〜〜遺族の挨拶、また変えなくちゃならないなぁ〜)と考えながら
なぜ、神父様の話とだぶるのかなぁと思った。

病院に通う車の中でこの歌を聴いたとき、
(あ、お父さんみたい〜〜)と感激したことがあった。
危篤になった頃だったと思う。

挨拶の中で、この詩のとおり、父は「風になる」と話した。
「おだやかで、さわやかで。。。。。おとうさんみたいだなって。。。。」
泣くまいときめてたのに、涙があふれて、
何回もさわやかで、おだやかでと言った。
父の大学の同級生という「ひとりのこっちゃったよ」と一生懸命歩いてきてくださった
Hさんが大きく、何回もうなずくのをみて、また涙が溢れた。

心穏やかに父を送り出したいと、挨拶を閉めた。

父の葬儀で、また人の輪がひろがった。
疎遠にしていた親類もこころおきなくはなすことができ、
兄嫁の聖歌歌唱には救われた。

多くの方にこころから、ありがとうを言いたい。
そして、この人の輪をまた作り直してくれた父に、
ありがとう、おとうさん!
by ygracia | 2006-12-08 08:27 | 父と千の風